唯一楽しめる時間。ひとりになって、肩の力を抜くことができる場所。それがバスルームだった。友だちと遊ぶことでも、ましてや恋人と過ごすことでもないなんて、かなしくもあるけれど、湯船に浸かって何も考えずにいる時間が、何よりも大切なひとときだった。
昔からそれは変わらなかったが、雑誌で紹介されていた、半身浴をやりだすようになって、入浴の時間も回数も、さらに増えた。長いときには、3時間なんてこともある。さすがにへとへとになるが、悪くない気分だった。
遅く起きた休日の昼前、フレッシュジュースをがぶ飲みしたあと、お気に入りのアロマの香りで満たされた、ピカピカのバスルームへ逃げ込む。そこには、この部屋には似つかわしくないくらい、大きな湯船が待ち構えている。
職場からも遠く、駅からも歩いて20分はかかる。新しくもなく、オシャレでもないこの部屋を選んだのは、ひとえにこの湯船の大きさゆえだった。
――何という名前だったか。部屋探しに飛び込んだ、あの不動産屋の担当者は。
「とにかく、バスルームが広くて、湯船がおっきな部屋がいいんです!」
そんな注文をした客が、いままでにいたのだろうか。彼はただ、にっこりと微笑んで「いっしょに、納得いくまで探しましょう」と、その変な要求を引き受けてくれた。そして、この部屋に巡り合うまでの3ヶ月間、20以上もの物件回りを、嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた。もちろん、彼にしてみれば、それが仕事なのだろうが。
――ピン ポーン
チャイムが鳴る。
この部屋だけなのか、それとも、このマンションのすべての部屋がそうなのか、玄関のチャイムは、ひどく間の抜けた音がする。最初は、故障かと思って気にかけていたが、それほど来客が多いわけでもなく、いつしか慣れていった。
――ピン ポーン
もう一度。そして、しばらく時間を空けて、もう一度。
届け物だろうか? 何にせよ、今は出て行く気にはなれない。いや、出て行っても意味がない。
それからもチャイムは2度ほど鳴ったが、それきりで、何も聞こえなくなった。
どれくらい時間が経ったのだろう。体はすでに、何の温度も感じなくなっていた。お湯がぬるくなってきたせいもあるだろうが、右腕から少しずつ流れ出ていく、赤い液体のせいでもあるのだろう。
一度では不安で、カッターで3度、出口を作った。長く、深く、ゆっくりと。
あんなにも真剣に、苦しんで、もがいて答えを出したのに、死へ向かうことは、やはり怖かった。恐ろしかった。一瞬だが、迷いも浮かんだ。
でもそれよりも、生き残ってしまうことのほうが、もっと怖かった。この世界にはもう、わたしの行くべき場所も、手を差し伸べてくれる者もいない。いるとしても、それはさらに苦しみを運んでくる者たちばかりだ。
この先どうすればいいか、の選択肢のなかに、”死”というものが加わると、その影は徐々に濃くなるばかりだった。そしてそれは、すんなりと受け入れることができた。他の選択肢は、その中から選ばざるを得ないもの。でも死ぬということだけは、自分の意志でそれを選べたから。ただひとつの、わたしだけの意思で。
それを意識するようになってから、暇な時間は、どうやって実行するか、そればかりを考えた。昼休みに、友だちの恋愛話を聞きながら、飛び降りは何階からすればいいのか想像した。電車に揺られ、吊革広告を眺めながら、首を吊るならどんな紐がいいか考えた。
せめて美しく死にたい――。そう考えて、睡眠薬を手に入れようとしたが、どこでどんな種類の薬を買えばいいのか、探すのも調べるのも手間になってやめた。
そんなふうにあれこれ考えるのは、奇妙だが、楽しくもあった。
悲しむ者は、いないだろう。両親も、兄弟もいない。困る人はいるだろうか。仕事など、わたしがいてもいなくても、同じようなものだ。夫は…、考えたくもない。
結局選んだ方法が、大好きなお風呂に浸かったまま、手首を切って出血多量で死ぬという、わりと安直な手段だった。多量とは、どれくらいの量をいうのかわからないが、とりあえず、放っておけばそうなるだろう。
白血球がどうとかで、傷口が塞がって、助かってしまう人もいるらしいが、念のために飲めない酒も飲んだ。血の巡りがよければ大丈夫、のはずだ。明日まで、誰もこの部屋に来ることはない。
「――なんでわたしだけが?」そう考えるのはやめた。
何度突き落とされても、突き放されても、腹の奥に力を入れて、必死に立ち上がった。世の中にどれだけ不幸な人がいるのか、どれくらいの不幸を抱えているのか。わからないし、わかってもしょうがない。
人は、生まれたときに、すでにいくつかの試練が用意されていて、それを乗り越えながら、強くなっていくのだという。それならば、乗り越えられなかったひとは、どうなるのだろうか。それが乗り越えられるものだなんて、誰が判断するのだろうか。
――どうでもいい。もう、そんなことはどうでもいい。全部なくなるのだ。
色んな感覚が、どんどん薄くなっていく。ぼんやりと横を見ると、排水溝の近くに、赤黒い流れが滞っている――。これは美しくない。
少しでも、シャワーで流しておこう。そう思って手を伸ばそうとするが、うまく力が入らない。左腕が、お湯の中にあるのか外にあるのか、曖昧だった。何度か試したが、動きそうにないので、諦めた。
視界も、思考も、だんだんと輪郭がぼやけてくる。眠くて。眠くなくて。
小さいころ、思いっきり遊んだ日の夜、ふんわりとした布団に包まれて、眠りに入るような、そんな感覚に似ていた。
ボロボロだった、故郷の我が家を思い出す。父がいて、母がいて、ネロがいて。たぶん、幸せという時間もそこにはあって。無理をしなくても、自然に笑えていたころ。
――猫になりたい。生まれ変われるのかどうか、わからないけれど、できるならば、猫になりたい。
中学生になったころ、ゆっくりと、静かに死んでしまったネロ。家族の誰からも愛され、可愛がられていた、我が家のアイドル。ネロ。
あんなふうに、誰を愛するとでもなく、誰からも愛されながら生きてみたい。
母を思い出す。料理が好きで、3食手を抜かず、いつもご馳走を用意してくれた母。とくに朝食は、テーブルから溢れんばかりの量で、寝る前はいつでも、翌朝のメニューを思ってわくわくした。
――まぶたが重くなる。眠気とは違う。自分が、少しずつ溶け出していくような感じ。あぁ、こんなにも、死ぬことが、夢にまどろむようなものだと知っていたら、もっと早く別れを告げたのに。
どこで選択を間違えたのだろう。どこで、愛する人を見失ったのだろう。何も高望みなどしなかったのに、なぜ一人きりだと、そう思うことしかできなくなってしまったのだろう。
――さらに溶けていく。自分が、呼吸しているのかどうかも、わからない。苦しくはなかった。苦しみとは、心の中でこそ生まれるものだった。
言葉が浮かばない。何も巡らない。すべてが居場所を失ってゆく。
首が崩れる。頬を生ぬるい汗が、伝わって、流れ落ちた。
日時: 2007年07月30日 00:44 | パーマリンク