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      <title>ノーエンドロール</title>
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      <description>終わりのない短編小説。ノーエンドロール。</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
      <lastBuildDate>Tue, 04 Sep 2007 00:32:37 +0900</lastBuildDate>
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         <title>01 # 合鍵</title>
         <description>　エレベーターの扉が開く。押しやられるようにロビーへ出ると、足早に出入り口に向かう人並みに埋もれる。
　１５階あるこのビルには、各階にまたがって多くの企業が参入していて、１８時前後ともなると、帰宅する大勢のサラリーマンで通路は溢れ返る。そのまま家に向かう者。同僚と食事に向かう者。待ち合わせへ急ぐ者。それに混じって何人かは、また客先へと仕事へ向かっていく。
　綾花は帰宅組のひとりだ。仕事に情熱がないわけではなく、ただ残業するほど仕事がないだけで、ほぼ毎日定時過ぎには、この人波とともに会社をあとにしていた。
　仕事が生きがいよ。仕事は裏切らないわ。そんなことを言う女友だちもいる。朝も夜も区切りのない生活を送りながら、必死に会社に、自分に認められようと、プライベートの時間もなく働く友人。それとは逆に、もうすでに家庭に入り、内助の功に力を注ぎ、空いた時間で好きなことをする友人。
　そのどちらの暮らしも悪くないとは思うが、そのどちらかに偏るほどの決断も、環境もなく、いまはただ淡々と与えられた仕事をこなし、適度にプライベートを楽しんでいる。これだって立派にひとつの生き方だ。と思ってはいる。
　「――綾花さん！」
　丁度表に出たところで、男の声に呼び止められた。声の元を辿ると、スーツ姿の男がひとり、嬉しそうにこちらに近づいてくる。
　「綾花さん、いま帰りですか？」
　「――ええ。藤本くんも？」
　「それが…」と言って、藤本は背後を振り返る。同僚らしき男が、ハンカチでせわしなく汗をぬぐっている。
　「あいつがちょっとポカやっちゃって、これから先方にちょっと。」
　「そうなの。たいへんね。」
　と言うと、ええ、まあ。と照れながら頭をかいた。
　――２つ下の藤本は、課は違うが時々仕事を共にすることがあった。昔柔道をやっていたというその体格はがっしりしていて、背は低いが人を圧倒するような雰囲気を持っている。声がかなり大きくて、一度街で名前を呼ばれたときは、こちらが赤面してしまうほどの声量だった。
　「今日はあれですけど。今週末あたりデートしてくださいよ。」
　と、少し甘えた感じで藤本が言う。
　「そうね。考えとく。」
　「えー。たまにはほんとに考えてくださいよ。」
　「また今度ね。」
　と軽くかわすと、
　「もう。いつもそうじゃないですかー。」
　と藤本はおどけてみせ、じゃあ、と手を振り、同僚を促して力強く歩き去ってゆく。
　その後姿を見送ってから、綾花はまた帰り路へと足を運んだ。
　――藤本は、はじめて会ったときからずっと、なんだかんだと綾花を誘った。その隠しもしない好意の向け方は、けして不快ではなく、こんなやりとりも楽しめるものだった。
　何度か食事をしたこともあるが、それは仕事の帰りしなであったり、打ち合わせと称してのランチであったりで、しっとりとふたりで夜のバーに行くなんてことはなかった。もちろん、デートらしきものなんてしたこともなく、軽く酒を飲みながら「今日こそはホテルに誘いますから」なんて台詞も、けして実現することはなかった。
　何よりも、藤本にはれっきとした恋人がいるのだ。それも社内に。――そして綾花にも…。
　人の流れと足並みを揃えながら、最寄の地下鉄へと向かう。電車を２回乗り継いで、目的地の駅に降り立った。まだ多少蒸しはするが、昼間よりはいくぶん涼しくなっている。
　楽しそうに話しながら歩く女子高生。ヘッドフォンをしたまま無表情に歩きゆく青年。肩を寄り添うように歩く老夫婦。ベビーカーと母親。散歩中の犬と飼い主。
　線路脇に並ぶ鉄柵に体をあずけて、目の前をゆっくりと流れる風景を眺めた。
　――恋をすると世界は変わる。
　まさにその、色めきたち不思議なほど明るい世界の中に、いま綾花はいた。
　息苦しい毎日。そう思っていた毎日。代わり映えのしない風景。無関係な人々。味気のない空気のなかにいたそれまでの日々が嘘だったかのように、今は毎日が眩しくて温かかった。
　こうして町並みをただ眺めているだけで、自然と口元がほころんでしまい、わざとらしくせきばらいをしてなんでもない顔をする。そしてまた、とろんと幸せに浸った。
　携帯を取り出し、これから向かう場所の持ち主のアドレスを探す。
　さ行の、２番目にその名前はある。
　ボタンを押す。耳にあてがうと、呼び出し音でさえ心地よい。
　「はい、もしもし」
　当たり前だが、本人が出て、でもそんなことが嬉しくて、毎日のように電話で声を聞いているのに、少女のようにときめいてしまう。
　「――もしもし？」
　「あ、ごめん。あたし。いま近くの駅。」
　声がちょっと上ずってないかな。
　「そっか。おれまだ会社なんだ。もう少しかかる。」
　「うん。」
　今日はどのスーツ着てるんだろう。
　「晩御飯どうする？」
　「え？あたし作るよ？」
　台所で食事を作り、あなたが帰るのを迎える。そして…
　「ほんと？冗談だと思ってたのに、嬉しいな、楽しみ。」
　「うん。食材買うから、ゆっくり帰って来ていいよ。」
　でもなるべく早く帰ってきて。
　「わかった。家にあるの適当に使っていいから。」
　「うん。」
　「じゃあ、あとで。」
　「うん、あとで。」
　あとでいっぱい抱きしめて。
　切れた電話をしばらくながめ、ゆっくりと折りたたむとカバンにしまった。
　踏切を渡るとすぐ、商店街のアーケードがある。この日のために、綾花は前もって下調べをしていた。どこのお店が評判が良さそうか、どこで買えばよい食材が手に入るか、取り出したメモにすべて書いてある。
　慣れない料理も勉強した。以前いっしょに行ったレストランで、おいしいと言って飲んでいたワインも調べた。女の子らしいエプロンも買った。何もかも、今夜のため。最高の夜にするために。
　――店を５軒回って、ようやくすべての食材が揃った。――すでに陽は落ちていた。
　腕に食い込むビニール袋の痛みも気にならず、マンションへと向かう足取りは軽い。もうすっかり熱気は無くなっていたが、歩くうちにうっすらと汗が額に浮かんだ。――１５分ほどで目的地へたどり着く。
　ひと息つくと、ロックも何も付いてない扉を押し開け、すぐ目の前にある階段を上る。ひんやりとした空気を感じながら、コンクリートを踏みしめて３階まで。突き当たりから２つ目が、直之の部屋だ。
　荷物を片方の腕に集め、空いたほうの手でカバンにしまった鍵を探す。――合鍵。生まれてはじめて、恋人から渡された部屋の鍵。冒険小説でいうところの、魔法の鍵のようだった。
　ちょうど１ヶ月前、彼から鍵を渡された。
　「いつでも好きなときに来ていいから。」
　少し照れたように、わたしの手を掴み、手のひらに落とされた、魔法の鍵。わたしはただただ嬉しくて、舞い上がって、食事を終えてから家に帰るまで、何十回も鍵を手の上に置いて、消えたりはしないか確認した。
　２６歳にしてはじめての、むずがゆいほどの確かな恋。
　――直之がはじめての相手、というわけではない。それどころか、いままでに両手では足りないくらいの男たちと恋愛をしてきた。でもいま思えば、それはすべて恋愛と呼べるようなものではなかったのだろう。
　高校生になったころから、綾花は異性にとにかくもてた。自分でいうのもなんだが、容姿もスタイルもけして悪くはなかった。いまでもそうだと思う。ただそれでも、クラスや周りには、自分より美人だったり成績が良かったりスタイル抜群の女たちもいたように思う。それでもなぜか、多くの男たちの的になるのは、決まって綾花だった。それは大学生になっても変わらなかった。
　「綾花ってさぁ、なんか、お姫様みたいなんだよね。」
　大学２年のとき、サークルで知り合った女友だちに、そんなことを言われたことがある。「別にすましてるってわけじゃなくって、なんていうかなぁ、よく言えば気品があるっていうの？」だから大抵の男は綾花に憧れるんだよ。その子は肩をすくめながらそう言った。
　当たり前だが綾花はお姫様でもなく、良家の生まれでもなんでもなく、平凡な家庭で生まれた、ごくごく普通の女の子だった。ただ少しだけ、みんなと違うと感じたことといえば、祖父の異常なまでの躾の厳しさぐらいだろう。
　物心ついたころには、父と母を「おとうさま、おかあさま」と呼んだ。家族の誰かが家に帰れば、玄関先で「おかえりなさいませ」と正座をして迎えた。食事の時はテレビを点けない。食べ終わるまで会話はしない。何かを買うときは、例えそれが自分のお金で買う鉛筆だろうと、父か祖父の許可が要った。
　いつだったか、はじめて遊びに行った友達の家で、おやつに出されたスナック菓子を食べ「おばさま、これはどういう味付けをされてるんですか？」と言って驚かれたことがある。綾花の家では、口にするもの全てが、母の手作りだったからだ。
　もちろんそんなことで、気品なんてものが身についたのかどうかはわからない。それでも確かに、いつも回りにいる同年代のクラスメイトたちを、幼稚だと感じることは多かったし、多少のことで動じたりするようなことはなかった。もしかしたらそんなことが、男たちの目には新鮮に映ったのかもしれない。
　逆に、綾花が男を見る目は厳しかった。冷めていたと言ってもいい。
　何人かの男たちに愛を告げられ、多少なりとも付き合い（どれも短かったが）、相手を理解しようと努めたこともあったが、いつしかそれも「男はみな同じ」という結論を得て、徐々に恋愛について目を細めるようになった。
　語る言葉は違っても、行動は同じだった。手を繋ぎたがる。抱き締めようとする。口を近づける。裸にしたがる。笑えるくらい、みな同じだった。
　「そんなの当たり前じゃない。」そう言う友だちも多い。事実、色んな雑誌にも、何回目のデートでキスをしたとか、セックスまでこぎつけたとか、そんな記事が恥ずかしげもなく掲載されている。
　それが当たり前でも、当たり前の恋愛なんかしたくない。――そう思っているうちにだんだんと異性を遠ざけるようになり、いつのまにか恋とかそういったものとはあまり関係のない生活を送るようになった。それでも構わないと思いつつも、やはり寂しいのは確かで、仲睦ましい恋人たちを目にする度に、ため息をつくこともしばしばだった。
　たまに誘いに応じることもあったが、それはここ数年で数えるほどであり、どれもなんの実りにも繋がらなかった。
　妥協しなくてはいけないのか？当たり前の恋愛で満足しなくてはいけないのか？そう考えはじめていたころに、木の葉のようにふわりと、何の前触れもなく目の前に現れたのが、直之だった。
　――部屋に入ると、じめっとした空気でひいていた汗が再び流れてくる。一旦荷物を床に置いて、窓を開け、エアコンの電源を入れる。
　痛みそうな食材を冷蔵庫に閉まってから、エアコンの吹き出し口の前にのべっと座り、胸元のボタンを外し、天井を仰ぐ。――汗がすうっと消えていく。ペットボトルに入った紅茶をひとくち飲むと、心地よい疲れが体に浸透した。通りを走る車の音が、窓の外からかすかに聞こえる。
　しばらくそうしていたあと、「よし」と声を出して立ち上がり、髪を束ね、手を洗ってから持参したエプロンを着ける。姿見がないので洗面所に向かい、小さな鏡に映った自分を吟味する。――うん。悪くない。
　それから１時間半ほど、綾花は黙々と料理をした。使った気配のあまりない、炊飯器やら鍋やらフライパンを洗い、レシピを見ながら慎重に味付けをし、熱の通し具合を確認し、
あとは最後の仕上げ、という状態になったころ、すでに時間は９時過ぎになっていた。
　少し休もうと腰を下ろすと、まるでその様子を見ていたかのように、携帯にメールが届く。
　いま駅に着いた。遅くなってごめん。
　駅に着いた！ここまで何分だっけ？どうしよう！
　もうすでにあらかた用意はできているはずなのに、メールを読んだ途端、おろおろと部屋の中をうろついた。テーブル、台所、玄関、椅子、洗面所、何かぬかりはないか指差し確認をして、携帯を握り締めたまま、玄関の前に陣取った。
　はじめて夫の帰宅を迎える新婚の妻。
　いまの自分の心境にぴったりのフレーズが浮かんできて、綾花はひとりでにやついた。こんな歳で、こんな初々しい気分になれるなんて、ほんとに予想もしていなかった。
　思い出したようにもう一度洗面所に向かい、口紅を塗りなおして髪をほどく。恋する少女の姿が、そこには映っていた。
　リビングの入り口で振り返り、清潔で簡素な部屋をゆっくりと見渡す。ごちゃごちゃしたのが嫌いな直之そのままに、余計な物はほとんど置かれていない。暮らすのに、生きるのに、必要最低限の家具。果たしてこの部屋で、わたしは必要な物として彼に求められるだろうか。
　合鍵をもらう前、数えるほどだがこの部屋で過ごしたことがある。それから雑貨屋で買い物をするときはいつも、これを部屋に飾ったらどうだろうと、たびたび考え、耽っていた。
　直之は怒るだろうか。でも少しぐらいなら許してくれるだろう。
　少しずつ、ちょっとずつ、わたしの買ったもの。もしくはふたりで選んだものをここへ飾って、ふたりの部屋にしていきたい。図々しくならないように、慎重に。
　――コツコツと足音が聞こえる。ドアの前で立ち止まる気配。直之だ。
　チャイムを待つのももどかしく、勢いよくドアを開ける。
　「おっと。――びっくりした。そこで待ってたの？――ただいま。」
　おかえり、そう返そうとして、直之の背後の人影に気付き、声も、用意していた出迎えの笑顔も消えてしまった。
　「こんばんわ。こんな時間にすいません。」
　「…。」
　「高校んときの同級生。ほんと偶然に、あそこの角のコンビニのとこで会ってさ。」
　「同級生？」
　いままで見たこともない。そして今夜の予定にはない、美しい女がそこに立っていた。
　「そう。もう十何年ぶりでさ。――とりあえず、中入って。」
　「いいんですか？」女はそう訊き返すが、帰る気配はなかった。
　「急にごめんね。」
　直之にそう言われ、綾花はただ「ううん、全然」と答えるしかなかった。
　お邪魔します。と会釈をして、女は香水の匂いを残して直之のあとに続く。パンプスが、やけに眩しく見えた。
　おー、すごいご馳走だなぁ。ほんとですね。リビングからふたりの会話が聞こえてくる。
　どういうことだろう、これは。――いや、どうのこうのもない、ただ、直之が同級生を家に連れてきただけのことだ。ただそれが、綾花が初めて直之の部屋に泊まる日だったってことだけだ。
　それでも綾花は、そこからなかなか動けなかった。
　頭の中で物語ができていた。食事も、夜も、迎える朝も。思い描く最良のストーリーがあった。それが、読み始めてすぐ別のものになってしまったのだ。――この先を読み進めるのには、しばらく時間が必要だった。冷めたスープが、温まるぐらいの時間が…。
　コンロに乗せた鍋から漏れる蒸気が、換気扇に吸い込まれていく。何か飲み物ある？直之の声がぼんやり聞こえる。綾花はすぐに返事ができず、エプロンを強く握り締めた。</description>
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                  <category domain="http://www.sixapart.com/ns/types#category">（未定）</category>
        
        
         <pubDate>Tue, 04 Sep 2007 00:32:37 +0900</pubDate>
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         <title>00 # プロローグ</title>
         <description>　唯一楽しめる時間。ひとりになって、肩の力を抜くことができる場所。それがバスルームだった。友だちと遊ぶことでも、ましてや恋人と過ごすことでもないなんて、かなしくもあるけれど、湯船に浸かって何も考えずにいる時間が、何よりも大切なひとときだった。
　昔からそれは変わらなかったが、雑誌で紹介されていた、半身浴をやりだすようになって、入浴の時間も回数も、さらに増えた。長いときには、３時間なんてこともある。さすがにへとへとになるが、悪くない気分だった。
　遅く起きた休日の昼前、フレッシュジュースをがぶ飲みしたあと、お気に入りのアロマの香りで満たされた、ピカピカのバスルームへ逃げ込む。そこには、この部屋には似つかわしくないくらい、大きな湯船が待ち構えている。
　職場からも遠く、駅からも歩いて２０分はかかる。新しくもなく、オシャレでもないこの部屋を選んだのは、ひとえにこの湯船の大きさゆえだった。
　――何という名前だったか。部屋探しに飛び込んだ、あの不動産屋の担当者は。
　「とにかく、バスルームが広くて、湯船がおっきな部屋がいいんです！」
　そんな注文をした客が、いままでにいたのだろうか。彼はただ、にっこりと微笑んで「いっしょに、納得いくまで探しましょう」と、その変な要求を引き受けてくれた。そして、この部屋に巡り合うまでの３ヶ月間、２０以上もの物件回りを、嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた。もちろん、彼にしてみれば、それが仕事なのだろうが。
　――ピン　ポーン
　チャイムが鳴る。
　この部屋だけなのか、それとも、このマンションのすべての部屋がそうなのか、玄関のチャイムは、ひどく間の抜けた音がする。最初は、故障かと思って気にかけていたが、それほど来客が多いわけでもなく、いつしか慣れていった。
　――ピン　ポーン
　もう一度。そして、しばらく時間を空けて、もう一度。
　届け物だろうか？　何にせよ、今は出て行く気にはなれない。いや、出て行っても意味がない。
　それからもチャイムは２度ほど鳴ったが、それきりで、何も聞こえなくなった。
　どれくらい時間が経ったのだろう。体はすでに、何の温度も感じなくなっていた。お湯がぬるくなってきたせいもあるだろうが、右腕から少しずつ流れ出ていく、赤い液体のせいでもあるのだろう。
　一度では不安で、カッターで３度、出口を作った。長く、深く、ゆっくりと。
　あんなにも真剣に、苦しんで、もがいて答えを出したのに、死へ向かうことは、やはり怖かった。恐ろしかった。一瞬だが、迷いも浮かんだ。
　でもそれよりも、生き残ってしまうことのほうが、もっと怖かった。この世界にはもう、わたしの行くべき場所も、手を差し伸べてくれる者もいない。いるとしても、それはさらに苦しみを運んでくる者たちばかりだ。
　この先どうすればいいか、の選択肢のなかに、”死”というものが加わると、その影は徐々に濃くなるばかりだった。そしてそれは、すんなりと受け入れることができた。他の選択肢は、その中から選ばざるを得ないもの。でも死ぬということだけは、自分の意志でそれを選べたから。ただひとつの、わたしだけの意思で。
　それを意識するようになってから、暇な時間は、どうやって実行するか、そればかりを考えた。昼休みに、友だちの恋愛話を聞きながら、飛び降りは何階からすればいいのか想像した。電車に揺られ、吊革広告を眺めながら、首を吊るならどんな紐がいいか考えた。
　せめて美しく死にたい――。そう考えて、睡眠薬を手に入れようとしたが、どこでどんな種類の薬を買えばいいのか、探すのも調べるのも手間になってやめた。
　そんなふうにあれこれ考えるのは、奇妙だが、楽しくもあった。
　悲しむ者は、いないだろう。両親も、兄弟もいない。困る人はいるだろうか。仕事など、わたしがいてもいなくても、同じようなものだ。夫は…、考えたくもない。
　結局選んだ方法が、大好きなお風呂に浸かったまま、手首を切って出血多量で死ぬという、わりと安直な手段だった。多量とは、どれくらいの量をいうのかわからないが、とりあえず、放っておけばそうなるだろう。
　白血球がどうとかで、傷口が塞がって、助かってしまう人もいるらしいが、念のために飲めない酒も飲んだ。血の巡りがよければ大丈夫、のはずだ。明日まで、誰もこの部屋に来ることはない。
　「――なんでわたしだけが？」そう考えるのはやめた。
　何度突き落とされても、突き放されても、腹の奥に力を入れて、必死に立ち上がった。世の中にどれだけ不幸な人がいるのか、どれくらいの不幸を抱えているのか。わからないし、わかってもしょうがない。
　人は、生まれたときに、すでにいくつかの試練が用意されていて、それを乗り越えながら、強くなっていくのだという。それならば、乗り越えられなかったひとは、どうなるのだろうか。それが乗り越えられるものだなんて、誰が判断するのだろうか。
　――どうでもいい。もう、そんなことはどうでもいい。全部なくなるのだ。
　色んな感覚が、どんどん薄くなっていく。ぼんやりと横を見ると、排水溝の近くに、赤黒い流れが滞っている――。これは美しくない。
　少しでも、シャワーで流しておこう。そう思って手を伸ばそうとするが、うまく力が入らない。左腕が、お湯の中にあるのか外にあるのか、曖昧だった。何度か試したが、動きそうにないので、諦めた。
　視界も、思考も、だんだんと輪郭がぼやけてくる。眠くて。眠くなくて。
　小さいころ、思いっきり遊んだ日の夜、ふんわりとした布団に包まれて、眠りに入るような、そんな感覚に似ていた。
　ボロボロだった、故郷の我が家を思い出す。父がいて、母がいて、ネロがいて。たぶん、幸せという時間もそこにはあって。無理をしなくても、自然に笑えていたころ。
　――猫になりたい。生まれ変われるのかどうか、わからないけれど、できるならば、猫になりたい。
　中学生になったころ、ゆっくりと、静かに死んでしまったネロ。家族の誰からも愛され、可愛がられていた、我が家のアイドル。ネロ。
　あんなふうに、誰を愛するとでもなく、誰からも愛されながら生きてみたい。
　母を思い出す。料理が好きで、３食手を抜かず、いつもご馳走を用意してくれた母。とくに朝食は、テーブルから溢れんばかりの量で、寝る前はいつでも、翌朝のメニューを思ってわくわくした。
　――まぶたが重くなる。眠気とは違う。自分が、少しずつ溶け出していくような感じ。あぁ、こんなにも、死ぬことが、夢にまどろむようなものだと知っていたら、もっと早く別れを告げたのに。
　どこで選択を間違えたのだろう。どこで、愛する人を見失ったのだろう。何も高望みなどしなかったのに、なぜ一人きりだと、そう思うことしかできなくなってしまったのだろう。
　――さらに溶けていく。自分が、呼吸しているのかどうかも、わからない。苦しくはなかった。苦しみとは、心の中でこそ生まれるものだった。
　言葉が浮かばない。何も巡らない。すべてが居場所を失ってゆく。
　首が崩れる。頬を生ぬるい汗が、伝わって、流れ落ちた。</description>
         <link>http://blog.never-brand.com/2007/07/post.html</link>
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         <pubDate>Mon, 30 Jul 2007 00:44:10 +0900</pubDate>
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